へなちょこフリーター日記

おもしろおかしく生きてきたいね

道徳をねじ曲げても生きようとするところは、ちょっと好きかもしれない。

終わりまで連れていってくれなくちゃ、一歩も動けはしないんだ。

 

スナック感覚の暴力に、限界をむりむり更新させられて、いっそ破裂してしまえと願って叶わず、伸びたカップラーメンをすする自分は、人間としてバグなんじゃないか。

 

物欲も食欲も、YouTuberとかバナー広告とか口コミとかCMとかに作ってもらっていて、昨日買ったピンクのマックフィズだって、ポジティブになりたくて飲んでた。……感情のやり取り、まだ諦めてなかったんだな。

 

自分ひとりで選んだもの、クイックルワイパー片手に掃除のついでワンルーム中、探したけど、どこにも転がってなかった。

 

つまり、これは、世界に創造された人生だったってこと。

 

生きることには価値がある、そう刷り込まれたから死ねないだけで、みんな、生きようって決めて走りだしたわけじゃなかったよね?  

 

神さまなのか、母なのか知らないけど、生きるに価値を見出した人がスタートボタンを押した朝からここまで、みんなの意見に従って、とうとうこんなところまで来てしまった。

 

生きたいの衝動はもはや暴力。全然ついていけてない。死が尊がられる世界になったら、みんなすぐ死ぬじゃんね?  インスタ映えする葬儀プランが流行ってさ。

 

戦争がはじまって、人を殺そう!  って、そうしないと殺されるぞ!  ってなったら、私は他人を殺すと思わず、殺すだろうって、職場のいじめを傍観しながらぼんやり確信していった。

 

あの子と同じ目にあったら嫌だったから、何も言わずにいたんだけれど、だんだんその子のこと、疎ましく感じ始めた。かわいそうと、疎ましいが、矛盾せずにまだら色に頭をぎゅうぎゅうにして、ノイズが日常を支配してくる。あの子を嫌いになった。

 

でも虐めが終わったら、あの子はちょっとどんくさいだけの普通の子で、私は普通に好きだなって思った。私は普通にサイテーだった。

 

好き嫌いさえ、自分の意思じゃあなかった。

 

もしも今、アメリカと戦争ってなったら、私は普通にアメリカ人を嫌いになって、戦争終了ってなったら、今度はアメリカ人のこと、簡単に好きになるんだろう。

 

安全の確保のために好みさえ偽って、感情だってそのための道具。道徳をねじ曲げても生きようとするところは、言葉をもたない頃に戻れたみたいで、ちょっと好きかもしれない。

 

生きたいってなってしまうと、そんな意思、私にはたぶんないって感じする。死ねないんだよ。そう簡単には。

 

だから、死のうって決めて実行した人たちは、強固な本能にさえ抗って意思決定できたってことになるのかな?  それとも、死を良しとする誰かの意見につかまっていった結果で、生きるも死ぬも結局は同じことなのかなあ。

 

自分ひとりで何もかも決められる、決めてきたって思ってる人類とは解釈違いだなあ。ボールが地面とお友達になっても許してくれる人とだけ、晴れた日にピクニックとかしたいです。