へなちょこフリーター日記

おもしろおかしく生きてきたいね

真火におどる影はとんがったりへこんだりしている

 

言葉なり、態度なり、表情なりで、自分の身体をとおって発露された感情は、他人の五感にろ過されて、どこか、世界とか、大気とか宇宙とか、もしくは遠くの誰かのもとへ、還っていくのかもしれない。

 

 

ネガティブな気持ち、悲しいとかさみしいとか腹が立って仕方がないとか、そういうもの、相手の心を揺らすそういう感情を、他人に伝える術をもたないのが、色んな問題の根っこなのだ、きっと。

 

喜んでいるひとに出会えば、自然に笑みがこぼれるし、おめでとう、よかったね、の一言で感情のキャッチボールは一巡する。簡単だ。

 

悲しんでるひとに会ったら、どうするだろう?  お気の毒に、じゃあ、なんだか冷たいような気がして、悲しいままでいさせてはいけないという使命感がむくむく。こうすればああすればいいんじゃないかな。頼まれてもいないのに試行錯誤を開始。……あれ?  ボールのやり取り、できてる?

 

 

 

体調が悪い、は言えるようになったのよ。

 

どんなに健康に気を遣おうがなるときはなるし、我慢していいことはないし、人は何かしら手助けしてくれるものなんだってわかってきたから。

 

だけど、気分が悪いは、ひた隠しにする以外の方法を思いつかないのだ ( この場合の " 気分 " は、身体反応を抜きにした、心の状態のことね ) 。

 

 

 

ネガティブな感情は、他人に気取られてはいけないものだったんだよなあ。

 

心配させるからいけない、それもたしかにあるけれど、それよりなによりリスキーなんだよね、悲しみや怒りで他人の心を揺らすのは。

 

わたしが腹を立てると、母は見るからに具合が悪くなった。繊細なひとなのだ。眉間に深くシワが寄り、「頭が痛い」と言いもした。ああ、わたしの怒りは他人を不快にさせるんだ。母に怒っていたわけではないのだから、感情を抑える、もしくはひとりになればよかった。

 

悲しみは、優しい人を動揺させるからいけない。あらゆる手を尽くして立ち直らせようとしてくれるけれど、わたしは感情をうまく処理できず、もう大丈夫だよ、と言ってあげられるまでに時間がかかる。

 

大丈夫?  大丈夫?  大丈夫?  

 

あなたのおかげで助かりました、とお礼を言いたいのに、いっこうに大丈夫にならない自分がもどかしい。……だったらいっそはじめから大丈夫でいればいいんだ、と思いついたのは、いつだったんだろう。

 

 

 

そよ、と微かに揺れるばかりだった感情が、他人の手に渡ったとたん、ごうごうと燃えたぎる火柱になるようで怖かった。

 

みんなが水をかけて消そうとする。すみずみまで消し炭を踏んで、鎮火したかどうか、入念に丹念にチェックをする。大丈夫か、と問いかけるのも忘れない。水で重たいバケツを抱えて、こちらをじっと冷たく見ている。

 

まるでわたしが化け物みたいじゃあないか。

 

大人たちの手にも負えない、醜悪な化け物が己の内から湧いてくる。……隠す以外にどうすりゃよかった?

 

 

 

 

父や教師が怒鳴っても、それは指導や愛情という風に理解され許容される、誰も何も言わない。

 

一方で、わたしの怒りは、母の心をあからさまに揺らす。さらされれば泣き出したくなる彼らの怒りよりも、自身の " それ " は悪質なんだと、なんの矛盾もなく、そう思った。

 

 

 

 

当たり前、なんだけれど、わたしは感情を消すことに失敗した。

 

相変わらず怒ったし、悲しんだし、さみしがった。ただし、どんなにほの暗い感情も、心の中で薪をくべ、燃やして燃やして燃やしつくせば、表に出るのはたったひとつの涙でよかった。声や言葉をのみこんで震えるこぶしで頬を拭えば、誰も気づきはしなかった。

 

そうやって、生きてきた。