へなちょこフリーター日記

おもしろおかしく生きてきたいね

みんなちがってみんないい、って思ってたら息しづらくない?

 

愚痴って、なんのために言うんやろ。

 

話したところで解決しない案件。繰り返し繰り返し耳にしていると、自分が透明人間なんじゃないかと思えてくる。

 

からだをまっすぐに通過していく、辛いとか疲れたとか悲しいとかやり切れないとか。

 

こうすればいいかもしれませんよ、という具体案を求めての会話では、きっとない。そうすると、頭に浮かんだ解決策は消すしかしようがないんだけれど、繰り返してるとそれもだんだんめんどくさくなってくる。いっそ口に出して関係を終わらせてやろうか、なんて思う、己の人間性にため息でそう。

 

 

 

 

みんなは、会話で感情のやり取りをしてんだなー。

 

辛いって気持ちに、実はわたしもそうなんだ、って、おんなじカテゴリーに属する感情を返す。そういうキャッチボールの種類のひとつが、愚痴。

 

感情に解決策=理性で返すと、感情の返球を待ってた人にとっては期待はずれ。なんやこの変なボール、掴まれへんやん、ってなる。そうなるともう、似てるけど、全然ちがうゲームになっちゃう。

 

 

 

 

わたしは感情のやり取りが、でき、ない……。

 

相手が悲しがってても、わたしはあなたじゃないからよくわかんないな……と、同意さえうまくできない。たぶん、物事を細分化しすぎるのが原因。

 

あなたもわたしも同じ青い花をもってるね、でいいところを、それは何目何科ですか、葉の形状がちがうかも、地域差が大きい種類では、と細かに差異を見出して、最終的に全然ちがう花ですね!  ってなる。まれに、限りなく同種って判定が出たとしても、こっちは葉が1枚多いから別の株だ!  に落ち着く。

 

おんなじ生き方してきてないんだから、何にも共有できなくて当たり前だと思う。あれもこれもちがう!  って発見・結論こそ、わたしにとっては喜びなんだけど、たぶん、会話で到達すべきとされている頂点って、その真逆だ。

 

同意、共感、共有、親近感。

 

外回り用人格と、本来の自分が分裂している、スキゾイド ( ジソイド ) なんだけれど、わたしの外回り用人格は、主人格の反面教師みたいな存在。

 

同意・共感を求める人とも、その場つなぎであるとはいえ、コミュニケーションが取れる。が、心からの共感はしようがなくて、なんだか歪なやり取りになる。必死に " 普通の人 " であろうとしている。

 

 

 

 

悪意は本音、みたいな気がする。だから悪口を話題にのぼらせる人は、自分をさらけ出してるつもり、なんだろうな。

 

「あなたは新人の◯◯さん、どう思う?」ってにたにたしながら質問してきたあの人は、きっとわたしと仲良くしたかった。あいにくわたしはその子に関する悪意の待ち合わせがなかった。「……真面目な子だと思います」と返せば、つまんなそうに「ああ、そう」だってさ。

 

ひとを好きになるも、嫌いになるも、自分で決めればいいじゃあないか。

 

それに、わざわざ言葉にしようとしなくたって、本音ってダダ漏れじゃんね?  目線に、仕草に、行動の矛盾に。

 

自分をさらけ出して距離が縮まるなら、とっくにわたしとあなたは仲良しだから、心配しなくていいよ、なんて……言えるはずがない。