へなちょこフリーター日記

おもしろおかしく生きてきたいね

寂しさに人数は関係ない。

街で遊ぶにはなにせお金がかかるのだけれど、それで何を得ているかといえば、人間関係の関所を通るための、わかりやすさという名の通行手形、って気がする。


おひとりさま、って言葉、今ではひとり行動応援マークみたいに使われているけど、まだ結婚してないの?って揶揄する意味の言葉でもあって、おひとりさまよりもおふたりさま、その相手は友達よりは恋人のほうがのぞましいんだろうな。


飲み会の席で周囲の賑わいに置いていかれると、なんだか世界にひとり、みたいな気分になる。ふっと、上のほうからおりてくる孤独。さっきまで一緒になって騒いでいたあいつの姿が見えなくて、どこのグループにも入っていけないような気がして、まだ空いてないグラス片手に、メニューを開いてみたりする。そういう時って、果たしてひとり、なんだろうか?  それとも場所を共有してんだから、みんな、ってことでいいのかな?


おひとりさまのデメリットって、幸せだってことがわかりにくい、ただそれだけ、なんだろうな。


他人の幸せを願うときの、その定義って、見た目で判断しやすい普遍的でありきたりなものにどうしてもなってしまう。笑顔だとか、五体満足だとか、そんな風に、見るからにわかりやく幸せであってほしい。それって酷く身勝手で、でもじゃあ優しいってなんなんだろうとか考えだすと、あー、人間関係めんどくさい!


幸福の形が、わかりやすくなればなるほど、その実感はひとりひとりの体から遠ざかっていく。何人が理解してくれるか、祝福してくれるか、の物差しで幸せをとらえようとすると、体はだんだん存在意義を失っていく。それが死にたいってこと、なんじゃないかな。


世界でただひとり、自分だけが嬉しいんじゃないか、と思うこと。親友、恋人にも理解されないんじゃないか、と怖くなるほど夢中になれること。馬鹿なんじゃないか、と誰より自分が一番冷静に判断している、それでもやめられないこと、やりたいこと。


そういう、体で感じる幸福が生きのびるには必要で、本当は、アイスクリームとかネイルとか大きい目玉とかじゃなくて、自分の唯一にこそ、いいね!って言ってもらえたらって欲張って、わたしは言葉を探しているのかもしれない。


寂しさに人数は関係ない。


さびしいって言葉で濁して、物理的に人数を増やそうとしてしまうけど、誰かに理解されたいって思えば思うほど増してくものが寂しさ、なんじゃないかなあ。


自分のわかりにくさを諦めると、ひとの体がだんだんと見えてくる。でっぱったり、たるんだり、決して完璧とは言えない、自分とおなじに歪な体。いま初めて出会ったような気さえしてくる。ああ、ひとりじゃなかったんだ。別々の不自由を抱えて、この人も、あの人も、生きのびてきた。


何も怖いことなんてない、明るく笑うだけのコミュニケーションはちょっと怖くて、かといって不自由を嘆きあうのにも疲れてしまった。心は揺れているのだし、昨日のわたしは今日とはほとんど別人で、確固たる私、がないと弾まない会話のコツが未だにどうも掴めない。


最悪、体があればいいじゃあないか、なんて思ってるうちは、人前でどぎまぎし続けるんだろうなあ。