せかいは てきか みかたかで いえば てきで、むぞうさに あたえられる あかるいと くらいと そのまんなかを たべて めを さました。
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わたしの吐露する言葉は排泄物だ。
そんな例えを使いはじめたのは去年のこと 。書きかけの京都旅行記の結末にもかかわるのだけれど、頭の中に留めたところでどうしようもないものが、ノートやSNSへこぼれていく。
目的・テーマを決めましょうーーもの書きの手始めとして、ハウツー本で挙げられる " これ " を、わたしは実行できた試しがない。
ここ1ヶ月、体の調子のよい日がつづき、映画をみたり、自転車で遠出をしてみたりとネタはあるし、心境の変化なんかも興味ぶかくて、忘れちゃいかんとノートに残した。だのにブログとなるとどうも気乗りせず、そのうちそのうちと流れに身をまかせていたら、前回の更新からけっこう時間が経っていた。
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おもえば、能動的に書く、なんて経験、一度もないのかもしれない。
わたしは悪くない、と確信したかった。そのためには日記では不十分で、他人の目に触れるブログという場こそふさわしかった。
ひとつ前に開設していたブログは、明記してはいないものの「わたし悪くないよね!?」って叫びが背後に漂っていて、我がことながら痛々しくてかわいそうになる。このブログでの旅行記や店の紹介にしても、喜びの共有というよりは「こんな風に楽しくやってるんだから!全然惨めじゃないんだから!」って感じの先制攻撃だったなあと今になっておもう。
他人に受け入れてもらえないフラストレーションを原動力に、ネットへ言葉をつらねてきた。息をするのとおんなじに、それをしないと死ぬとかいう前に、もうしてる。目的なんてない。エネルギーが尽きたところがゴール。わたしにとって "書く" とは不随意にやるもので、やろうとおもってできないのは当たり前なのかもしれなかった。
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わたしの場合、書くことは読むこととたぶん密接に関係している。
1月下旬から新しい本に触れていなかった。実家から引きあげてきた懐かしい本たちに夢中で、本屋・図書館に立ち寄らずとも、充実した活字ライフを送れてしまったのである。
その間、アニメや映画、漫画の新しいものにはがんがん接していて、インプットはむしろ過剰なくらいだった。それでも、書けない。コップの水は待てど暮らせど溢れない。わたしに書くことを促す、唯一の刺激は活字、しかも未知なやつ。
そこへ、潜在意識で感じとれる記憶の底の浅さも加味されて、読んだら読んだ分だけ蓄積ってのもたぶん無理で、書きつづけるには読みつづけるしかないってのが今のところ有力な仮説ですーーつまりはただ代謝だった。
食べたら出る。そこに意思はなく、はじめからそうで、くわしい仕組みはわからない。読んだら出る。目的なんてありゃしない。なにが出てくるかもわからない。
京都にて自分の言葉を「排泄物」と例えたときには、わたしの思考や言葉で世界を変えなければ!くらいには気負ってて、だから目的はあるはずだと疑いもしなかった。このブログにも楽しさの反面、使命も感じていた。誰かを救わなければ存在してはいけないんじゃないかって。それが代謝の末の、ほんとうの意味での排泄物という結論に行きつくとは……。
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他人に伝えたいことなんて、わたしのなかには一欠片もないんじゃないか?
だから基本ひとりなんじゃないの? 孤独から遠いんじゃないの?
能動的に書こうとしている。おおげさに、わざとらしく、息を吸ってみる、吐いてみる。
桜が咲いたらなんかなんでもできそうだから、春が好きです。