へなちょこフリーター日記

おもしろおかしく生きてきたいね

コミュニケーションに要るもの『じぶん』

 

2018年は感情をのせていこうと思う。

 

 

 

うちの家族と付き合ううえで、感情は邪魔でしかなかった。なにせ、彼らの期待にそえないと悲しませてしまうのだから。

 

「黙れ」「喜べ」と、指示されるわけじゃあない。ただ悲しいな~って顔をされるとか、不機嫌になられるとかだった。

 

そうさせないためには親と同じ思考をしなくてはと、幼い私は考えたのだろう。けれども、私にもいっちょまえに心と頭が存在していた。

 

両親と祖母は『他人に合わせて生きてきた人たち』だ。我慢して、他人を優先して、なんとか居場所を獲得してきた。それが『愛』だと周りから教わってきたと思う。自分の愛した人がしてくれたのとおんなじことを、子どもにもする。彼らの行動は、祝福以外のナニモノでもない。

 

私は感情をなくすことで、好みじゃないプレゼントをもらっても " 本気で " 喜ぶことができるように成長した。愛想笑いじゃ悲しませてしまうのだーー演技をしてるつもりのない演技は、なんと呼べばいいんだろう。

 

 

 

人付き合いをするうえで、否定されるのが怖い、ってあるじゃあないですか。

 

壁をつくって守っているのが自分自身ならば、自信を持って自己肯定しさえすれば、なんでもなく新しい関係性を結べるはずじゃあないですか?

 

でも実際、自己肯定できても自己開示は全然できませんでした……なんでや!?

 

 

 

私の本当に怖かったものは否定の逆、だったらしいーー好きなものを知られるのが怖くて、人と距離を詰められますかいな。

 

家族に言葉で縛られはしなかった。無理に何かをやめさせられたり、「これを好きになりなさい」とも言われなかった。

 

私の母は、『私と同じもの』をよく好きになった。勧めたものを漏れなく好きになる母が怖かった。肯定されて恐怖を感じるなんて変だって気にしないようにしてきたけれど、母の行動は『娘の趣向の肯定』ではなくて『娘との同化』だったんだろうな。

 

*下のリンクは、過干渉の弊害についてわかりやすく解説してくれているサイト 。これを見て、自分の無意識な部分の思考に納得できた。

【補足2】親の過干渉が子供の性格に与える影響 | 子育てと解釈

 

いつの間にか『私=母』の構図ができあがり、そこから逸脱する自分の感情・思考をないものとして生きてきた。

 

母がトレースするのは『私の好きなもの全て』ではなくって、『理想の娘にふさわしいもの』なんだろうと思う(意識下での判断ではないから、彼女としては娘を全肯定してるつもりなんじゃないかなあ)。

 

自分の感覚や感情、思考、行動への、親からの口出しがあまりにもひどいと、

自分の経験を知られても、
自分の感覚や感情を知られても、
自分の考えを知られても、
自分の行動を知られても、
何を知られても、それを親から支配されると感じるようになります。

 

まさに上記の通りで、良いことも悪いことも、できる事なら何も知られたくない。それと同時に「すべてを知らせたい」とも思っている。特に母にはなにもかも報告してしまいたい。もしも親と完全に同化できたなら、親を悲しませるとか恩返しできないとか、もう考えなくてよくなるのだから。

 

否定されたら人並みに悲しく、肯定されたらされたで、支配させるきっかけを与えてしまったのでは、と恐怖を感じる。世間では肯定は全面的によいものとされているーーよいものを気持ち悪いと感じる私はおかしいに違いない……ますます他人を避けて遠ざけ、私はただいまこのザマである。

 

 

 

ない方がいいでしょ?と親切心からなんでしょうが、人前にでると自動でスイッチが切れる、MY感情出力スイッチ。

 

うちの家族間では感情を出さない方がコミュニケーションがうまくいってたわけだから、外の世界でもそうだって信じて疑わなかった。

 

27歳も終わりかけ、三十路目前にしてやっと学んだーー感情はあった方が絶対いい。

 

「それいいね」「私も好き」って言葉をかけられても怯えるこたあない。ただそのままの意味でしかない。「一生同じものを好きになり続けようね」ってことじゃない。

 

 

 

思いがけない悪口に遭遇したとき、嫌悪感とは別の苦しさがあったが、それも上記の問題とおなじ原因だった。

 

「目の前の人が~と思ってるんだから、私もそれと同じ感情・思考にならなければ」と思っていた。悪口の対象を好いていたとしても、嫌わないといけなかった。

 

感情と言動はちぐはぐでもよいのだーー外からは見えない感情が、私にとってはたったひとつの真実なのだから。