へなちょこフリーターの悠雅な日常

おもしろおかしく生きてます。ブログタイトルは香月日輪さんの著書から拝借。目標:週休5日。

好きになることを私は神聖化しすぎてる。

 

本をよく読む。

趣味は?と聞かれれば読書と答える、のだけれど私のやってることは果たして読書なんだろうかといつも少し緊張する。

 

 

大学生協には「読書マラソン」という本読み学生には得しかない企画が存在する(たぶん今も)。

読了した本についてコメントを提出しもらったスタンプを10個溜めると、売店で使える500円券がもらえるシステム。このスタンプ台紙には「在学中の4年間に本を100冊読もう!」と書かれていて、一か月に10冊読んだりする私は読書量が平均より勝っているらしいとここで初めて自覚した。

 

著者名・作品名を覚えられないうえ、好き!面白かった!としか表現できないお粗末な語彙力も相まって、自分が本に向ける「好き」に自信が持てずにいた。というか現在進行形でそう思っている。本だけでなく音楽・映画・人間に対しても、私の好意は他人のそれより熱が足りないんじゃないか。

 

何かを好きになることを私は神聖化しすぎてる

 

大好きな歌手のツアーに全通しようとか新譜の全形態を迷いなく購入するとか、Twitterやラジオにこまめにメッセージを送るような、下手したら日常に支障をきたすほど金銭も体力も時間をも注いで初めて「好き」なんじゃないか。

 

人生で3度ファンレターを送り、1度だけラジオに投稿した。いずれも後悔に胃のあたりがもにょもにょとよじれた。自分が自分で気持ち悪い

 

どんなに言葉を連ね推敲を重ねても、というか重ねれば重ねただけ常々抱いている思いと全く別物になってしまう。「こんなにもあなたが好きです」と伝えて何の意味があるんだろう、無意識に好かれようと媚びる文面にも嫌気が刺す。

 

「好き」のひと言では足りないし、言葉が文章になり文章が手紙やメールに姿を変えるごと嘘になってく。

 

たぶん傍から見れば私の駄文だってなんてことないただのファンレターなんだろう。

私の愛は他人とは違い特別なんだと思いたくって、言葉にできないなんて言い訳でただのファンに落ち着くことから逃げている。

 

 

同じものを好きだと判明するやいなや、私はその人と己の熱量とを比較せずにはいられない。

勝手に戦いの火ぶたを切って勝手に白旗を上げ、どうやって好きでいればいいかわからなくなった末、好きの対象物から距離を置く。それらは無意識下で瞬時に行われ自分ではどうしようもない。

 

そんなわけで共通の好きなものの話題で盛り上がるという状況を私はいまいち理解できずにいる。

 

所謂オタクと名乗る人たち自身、そしてファンミーティング?オフ会?と呼ばれるような共通の趣味を肴に語らう場こそ、まっとうに純粋な「好き」の形という気がする。私には不可能な愛し方に嫉妬を覚えつつ、やっぱり強く憧れる。

 

友情であれ親愛であれ人間に対しても私の好意のスタンスは変わらない。

「〇〇さんを一番わかっている・好きなのは私!」という自負でいる。ある人がわたしよりも彼氏との約束を優先したりすると頬を叩かれたような衝撃にぶちのめされる。この子にとって私は一番ではないのだと飲み込むのにしばらく時間がかかる。

 

とは言え、私は他人なんてけっこうどうでもよくって、自分か他人か選べと問われればそんなの自分を優先するに決まってるのに、ひとからされた時だけ落ち込むなんて虫がいいよな。全然できた人間じゃないなーって自覚する作業には苦いものがあるが、自分が全くもってまっとうでないと確かめられる貴重な時間でもあってちょっとほっとしたりもする。

 

きれいな神様じゃなくってきれいであろうとする人間でありたいじゃーないか。

 

 

 

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及びもつきませんが、本日は最果タヒさんを意識して書いてみました。

 

「輪郭ではなく空間を描く」を知ってから絵の方は飛躍的に楽しくなったんですが、文章のコツは未だによくわからんです。だいぶ使いこなせではきたものの、ルール、というか枠というかなんというかが掴みきれず…。

 

タヒさんの『君の言い訳は最高の芸術だ』を読んで、伝達の役割を脱いだ言葉に意識下で触れられた気がして、肩の力をほんのちょっと抜いてできたのが上記でござい。

 

好きにまつわる話、これにておーしまいっ。

 

 

明日もがんばらぬ~。