へなちょこフリーターの悠雅な日常

おもしろおかしく生きてます。ブログタイトルは香月日輪さんの著書から拝借。目標:週休5日。

フリーター、『君の名は。』に撃ち抜かれる。

遅ればせながら『君の名は。』見ました!

一晩明けて興奮冷めやらず。感想および考察を書き殴る。

 

 

白米とそのお供たち

映画の序盤も序盤、瀧と三葉が「「もしかして入れかわってる!?」」と叫ぶ辺りですでに拍手喝采したくなった。な、なんて贅沢な物語だ!!

 

 、高校生でありながら巫女として舞いを踊る三葉。

 、東京でなんでもない(田舎者からしたらとんでもなくおしゃれな)普通の生活を営む瀧。

 、瀧として生活を送る三葉。

 、三葉として生活を送る瀧。

 、瀧と三葉が心を寄せていく過程。

 、千年続く由緒ある宮水神社、豊かな自然をたたえる糸守の歴史。

 

1~6までのどれか一つだけでも十分に物語として成り立つ。

三葉は神社や巫女としても役割をどう捉えてる()?東京の高校生ってどんなこと考えてんの()?瀧になった三葉は奥寺先輩と何を話した()?憧れの東京で何かしたのか()?東京生まれからしたら糸守はどんな風に映った()?入れ替わり現象を二人はそれぞれどう考えていた()?なんで瀧は三葉が好きになった()?神社の御由緒は()?組紐の意味は()?

 

本筋のストーリーを白米とすれば、1~6の側面はご飯のお供。それらがセットされたお中元が届いて開封前から幸せの悲鳴!もしくは、どう考えてもお得なセットがこの値段?本当にいいの!?と箱をぎゅーっと店頭で抱きしめる。この時点ではまだ何も口にしてない。そんで食べてみたら予想以上に美味。しかも箱の底にデザートまで入ってた。買い直せるようにURLも記載。URLを頼りに新たなお供(元ネタ・解釈・監督インタビュー)を取り寄せ、私はいまだ白米を食べ続けている。もぐもぐもぐもぐ…。

 

 

最後の入れ替わりの謎

三葉の死を知った瀧が口噛み酒を契機に再度入れ替わるところが不可解だった。物語を紐解くブログをいくつか読んでみて一番腑に落ちたのが以下の解釈。これを用いると神さまの理屈で全部説明がつくので私的にすっきりする。

1度目に彗星で死んだ三葉の魂が不安定なまま現在と過去を彷徨い、瀧に乗り移ることで2度目の2013年を迎える。しかし2度目でも彗星回避はできず死亡。瀧が口噛み酒を飲んだことで3度目の2013年を迎え、そこで初めて死なずに済んだ。

三葉を死んだ人間として捉えると、ご神体が祀られたあの場所の意味が際立つ。口噛み酒を奉納する場面でおばあちゃんがこう言う「ここから先は隠世(かくりよ)。常世に戻るには大事なもの(己の半身である口噛み酒)を置いてく必要がある」。

瀧が口噛み酒を飲んだのは隠世、死んだ魂の行くところ、つまり三葉のいる場所。そこで瀧は三葉の半身とされる酒を飲む。

 

A 最初に発生していた入れ替わりは三葉(隠世)→瀧(常世)、瀧は三葉の記憶の中の糸守を見ている。三葉の魂は己の死を思い出した時点で隠世に去ったため、入れ替わりが起こらなくなった。

B 最後の入れ替わりは瀧(隠世)→三葉(隠世)。瀧がご神体の山へ来た時点で三葉の魂はすべて隠世で静まっていた。三葉の誕生から始まる走馬灯のような描写を「瀧が三葉として生き直した」と解釈している記事があった。三葉の半身(酒)を口にした瀧の魂の半分は体から弾き出され、三葉のもう半分と融合(2人の魂が隠世で溶け合うことで歴史のつじつま合わせが生じた?)。

*AとBの入れ替わりの原理は異なると捉えるのが私好み。

 

Bにより瀧の意識は2013年10月4日の三葉の体、三葉の意識は2016年の瀧の体で目覚める。そして瀧の体を使い、三葉は2つの世界の境(ご神体を囲む水辺)を越え、隠世から現世へ。この世界のルールがどうなっているかは不明だが「現世に魂があるってことはこいつ(三葉)生きてんじゃね?体は瀧ってもんのやつっぽいから瀧も生かす感じか?」と神様(のようなもの)が結構大ざっぱに解釈し、2016年に三葉が生きている証明が必要になったのではないだろうか。私的に神様ってやつはテキトーなお方なので。もしも三葉が隠世に留まっていたら、瀧ともども死んでたやも…。

 

逢魔ヶ時の逢瀬は同じ常世という世界に2人が存在していたため、時間軸が歪んで実現した。同時に住民避難計画の共有により三葉の生存ルートが確定。神様としてはこれで仕事完了!とばかりに逢瀬をぶったぎったのではなかろうか。逢魔ヶ時がご神体のある山の縁、ひとつの境界線上で起こっているところも面白い。鳥居然り、敷居然り、境界線では世界が揺らぐ。神社にいくつも鳥居が立っていると神域を強化するらしい。糸守においても神体の周囲だけが神域というわけではなかろう。昼と夜を区切る時間、現世と隠世を区切る場所だったからこそ異なる時間軸に存在する2人が出会い、陽が暮れる(現世に戻る)際、代償として魂の半分(相手の半身およびそれに関する記憶)は隠世に残された。

三葉が最初は瀧の名前を覚えていたのにしばらくすると忘れたのは陽が落ちた=隠世から遠のいたから。一夜を明かした瀧がほとんどのことを思い出せないのも無理はない。魂を半分にする代償を犯して2人は無事生き返った。記憶をなくしながらも「誰か」を求め続けていたのは魂が半分しかなくて不安だったから。一目で気付いたのはかつて馴染んだことのある半身の匂いがしたからと捉えると面白い。

 

 

入れ替わりが彗星落下に備えての能力だとしたら、神様ツメ甘すぎない?

鑑賞中から宮水神社の由緒が気になって気になって仕方なかった。番外編を含む小説版を読んだわけでないので断言はできないが、ネットのネタバレを巡回したかぎり「能力が彗星に備えてのもの」と確証があるわけではないっぽい。

 

歴史の改変に入れ替わり能力は欠かせなかったとしても、その後の瀧の頑張りが大きいと思う。入れ替わり対象として神様?が瀧の性格を考慮していたとしてもギャンブルが過ぎる。もし瀧が腕の組紐に気づかなかったら?口噛み酒を口にしなかったら?三葉が境界を越えなかったら?糸守が救われるまでに不確定要素が多すぎる。神様が大ざっぱなことは認めるが、それにしてももうちょい確実な手を打ちそうなものだ。

 

(こっから先はにわか知識と回転の遅い脳みそを総動員)

sidestoryによると宮水神社の祭神は倭文神(しとりのかみ)。天照が天の岩戸に引きこもった時に布を納めた神様。同時に、星神香香背男(ほしのかがせお)を征服した武神でもある。神社の歴史が1000年。彗星落下が1200年前。sidestoryで宮水家は「倭文神の末裔」と言及されているらしい。倭文神が先か、彗星が先かは気になるところ。倭文神が先だとしたら彗星の落下は災害であるとともに、神が降臨したようにも感じたかもしれない。湖が湧くという恩恵を受けた可能性も否めない。

 

注目したいのは宮水家の女性に引き継がれている能力。入れ替わり、というよりも夢解女として夢を通しての予知の側面が高かったように思う。彗星落下の予測は特異なことであり、本来は比較的身近な未来を夢を通して見ることで農耕や養蚕といった村人の生活へ貢献していた一族だったのかもしれない。口噛み酒の奉納により魂を分割、より能力を高めていたとも考えられる。本来はご神体の側で夢解きの儀式を行っていたのかも。

もしこの能力が1200年前にも発揮され、彗星落下(神降臨)やその被害を予見していたら宮水家は糸守の人々から頼られ、絶大な力を誇っただろう。

そこで考えたいのが繭五郎の大火。時の権力者から疎まれたことで神社は焼かれ資料を失い、高い能力を有する女性は魔女狩りにあった、もしくはながらく女児に恵まれなかったために完全に歴史が廃れてしまった(可能性は低いと思うが、夢をみる先の家系も宮水家とは別に糸守に存在し、そちらは権力者に滅ぼされる前に糸守から逃れた、それが瀧の先祖だったら面白い)。

 

 

君の名は。』は舞台が現代だからこそ成立した和ファンタジー

おばあちゃんもお母さんも入れ替わりを経験済ということだが、おばあちゃんの若いころと言ったら戦後だろうか。その時代に東京の男子と入れ替わりが起こったとしてもそう簡単に会いに行くことはできなかったろう。その時点で糸守に彗星が落ちるとしても、情報網が今ほど発達していなかった時代に糸守という片田舎の事件の詳細をただの学生が詳しく知ることは難しかったように思う。

 

会ったことはないけれど、テキスト・写真によってその人となりを知る、というのはなんだかSNSっぽい。twitterinstagramを触ったころがあれば「顔は知らないけど遠くにいるけど好きになる」感覚はわからんでもないのでは?ネットや書物で遠い場所の過去ニュースを簡単に入手できたからこそ、歴史の改変が可能だった。過去でも未来でもない、現代の文明がハッピーエンドを連れてきた。夢がある、夢が!

 

日本の神様文化の面白さも再確認。神仏習合に八百万、付喪神、土着の神様。日本の神様事情は大ざっぱで適当で、土地土地の生き筋に根を張ってて…あーやっぱり面白い!

 

 

なぜ二人は惹かれあったのか?

瀧が目にする糸守も、三葉があるく東京もどちらも美しく輝きに満ちて描かれている。映画やアニメで描かれる映像には登場人物の視点が関わっている。瀧と三葉の「ものを見る視点」「感動する心」は非常に似通っていたのではないだろうか?

またお互いの人間関係を維持するだけでなく、そこに喜び(自販機横のカフェスペースや奥寺先輩への刺繍)を与えている様を目にして好感を抱かずにはいられなかったのやも。入れ替わりを繰り返して「会いたい」衝動に駆られることはしごく当然に思える。それが「すきだ」に発展した訳は当人たちにだってわからないのかもしれない。ましてや第三者が理屈をこねるのは野暮か。

 

 

鑑賞後に気づいたもっとも美味しかったご飯のお供「鑑賞者の生活」

「楽しい夢を見たことは覚えているが、内容は思い出せない。夜になる頃には夢を見たことさえ覚えていない」

誰しも経験したことのある感覚を劇中で瀧と三葉は繰り返し、クライマックスへの大きな布石となっている。ラブストーリーやSF的な設定が口に合わない、という人であってもこの「夢を忘れてしまう」感覚だけは共感が比較的容易。おそらく老若男女ほぼすべての人間が。

 

映画という夢から覚めたあともふと思う。「もしかしたら自分も夢で出会った大切なひとを忘れているかもしれない」。人の無意識領域は意識の8~9割を占める。記憶の底にファンタジーを沈めて日常へ戻り、糸守のような田舎で、駅のホームで、大切なひとを前にして、記憶の澱が浮き上がるほんの刹那、ファンタジーと現実の揺らぎに身をゆだねる。なんと幸福なことか。そしてまた『君の名は。』が見たくなる。

 

もうひとつの楽しみ方は新海監督の過去作からの流れを汲んでみる方法。私は2作『秒速5センチメートル』『言の葉の庭』しか見たことなかったが、それでも胸が騒いで仕方なかった。桜が降り、雪が降り、雨が降り、彗星が降って、や、やっと会えたー!中盤では三葉が死んだまま終わるかと思ったし、東京でも会えんのかと思ったよ…。未見の作品にも俄然興味が湧きました。

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以上『君の名は。』に関する雑感。ひとまず箸は置けた。ふー。きっとまた食べたくなるけれど。

 

2016年公開映画は粒ぞろいでしたな。『ズートピア』『シン・ゴジラ』『この世界の世界の片隅に』そして『君の名は。』。日本作品にはどれも東日本大震災の影を感じる。

「歴史は失われても伝統は繋いでいかねばならん」三葉のおばあちゃんの言葉を聞いて、津波てんでんこを思い出した。「津波がきたらとにかく高い所へ逃げろ」伝統の詳細が失われても繋ぐことをやめなかった宮水家の姿が東北の先人たちと重なった。

 

美味しい物語に出会える幸福を噛みしめている。わたしもなんか作りてー!おそまつさまでした。

 

 

明日もがんばらぬ~。