へなちょこフリーターの悠雅な日常

おもしろおかしく生きてます。ブログタイトルは香月日輪さんの著書から拝借。目標:週休5日。

ドミトリーで育ったおんな

 

みつけてくれて どうも ありがとう。

 

 

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ドミトリーをご存知だろうか?

 

一泊3千円前後で泊まれる宿である。一部屋に数台置かれた二段ベッドで、知らないひとと一緒にねむる。ベッドの周りはカーテンで覆えて、コンセントやライトが枕元にあることが多い。

 

風呂やトイレは共用、ちょっとしたキッチンスペースがついていたりする。とにかく安く済ませたい!って旅で重宝する。

 

 

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2年ぶりくらいに実家に泊まってきました。

 

実家の外見は洋風ながら、扉はすべて引き戸。空間は襖やアコーディオンカーテンで仕切られていて、悪く言えばプライベートのない造りをしています。

 

ちょっと居心地悪いけどアットホーム、ひとの生活空間に侵入する新鮮味、一泊するだけだしまあいいかって開きなおるこの感じ…

 

 

なにかに似ている?

 

 

お腹すいてない?お風呂はいつ入る?明日はいつ発つの?送ってこうか?

 

矢継ぎばやな気遣いも相まって、ますます強まる既視感…

 

 

 

 

 

 

あ、これ、ドミトリーやん。

 

 

 

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両親が突然宿泊業をはじめていた!というわけではなくてですね。

プライベート空間がないこと、伝わってくるおもてなし精神などなどが、わたしの知ってるドミトリーにそっくりだったのであります。

 

一応わたしの部屋とされるものはあったのですが、妹の部屋とはアコーディオンカーテンで区切られているだけでした。音は筒抜け、明かりは漏れる。扉に鍵はないし、いつでも誰でも入ってこれる。

 

どっちかってーと繊細寄りなわたしがドミトリー大丈夫、むしろけっこう好き ( 耳栓を得てからはますます ) なのは、実家っぽいからって理由もあったのかもしれない…

 

 

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あいかわらず実家は居心地わるかったんですが「ドミトリーっぽいわー!」って気づいたあとはその違和感さえおもしろかった。

 

「実家に泊まる」はきついけど、「ドミトリーに泊まる」とおもうと途端気が楽に。

 

ドミトリーなんだから多少居心地わるいのも、プライベートないのも当たり前なんだ。過剰な気遣いもサービス業だとしたら問題ない。

 

 

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ドミトリーを実家だとおもって育ったんだから、生きづらくて当然じゃない?

 

単にドミトリーを経営してる家族に育てられたんじゃないよ、親子=店員と客 ( 宿泊料がタダだから、客も気を遣っちゃうやつね )。

 

 

家族みんな優しいよ?でもサービス業の親切なんですよ。それを無償の愛だと定義してたのよ?心が不健康になって当然じゃない?

 

世間との認識ズレても仕方なくない?

 

世間一般の意味からズラしたところでなら、実家も家族も愛せるのかもと、絶望っぽい希望を見出せた帰省となりました。

 

 

ちゃんちゃん(泣笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

「わからない」はつまらないほど至るところにころがっていて

 

前回記事から引用

訳がわからないことが、犯行理由として、わかることとして扱われることが、たぶん怖かった。

 

ブログを書いていると、思いもよらないワードによく遭遇する。そんなときは、あなたこんなこと思ってたのね、と他人事のようにつぶやく。

 

引用部分も書きはじめにはまったく意図していなかった新鮮な視点で、おもしろいなあーと日中反芻してました。

 

 

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突然ですが、わたくし西尾維新作品が好きです。

 

西尾先生の書く登場人物たちはそれぞれに「わからない」を抱えていて、だから悩んだり衝突して、それでも「わからない」んですよ。

 

不明不明不明。

 

事件やアクシデントが一応は解決となるものの、解決に辿りついたからこそ見えてくる謎は解かれないまま終わるって感じなんですよ。

 

「わからない」に自覚的というか。

 

自分のことも相手のこともわからない。わかった気にならない。わたしはそこに安心感をおぼえている。

 

「わからない」こととして描かれるなら、理屈のそとに置かれるなら、非人道的な描写もこわくない。

 

 

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「〜だからこうなった」と理論的に語られるあれこれに人一倍懐疑的なのだとおもう。

 

生きるには「自分を棚上げにする能力」が必要だとどこかで聞いた。

 

わたしにとって理屈とは納得で、納得できないことは山のようにあるのに、世界は理屈でまわっているように語られている。

 

一般とか普通とか、遺伝子レベルで決められてるみたいな振るまい。その人にとってそれは世界の真実で、不明は否定になりかねない。

 

「わからない」はそのまま漂って消える。

「わからないから説明してくれ」とか「わからないからそれはよくない」とか、そういうことじゃあないんだけどなあ。

 

世界のすべてを知れるとおもってしまっていて、解説されたら、頭をつかえば、何もかも理解できるはずで、あなたとわたしには共通のなにかがきっとあると信じたい、だけど。

 

「わからない」はつまらないほど至るところにころがっていて、みえないことにしてもいいのかもしれないなあ。

 

 

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ひらがな多めにしたら、息がしやすくなりました。

 

正しい文法にかんしてトラウマがある…?記憶に蓋をしてる気がしてならない。

 

 

 

よみました『イノセント・デイズ』

 

早見和真『イノセント・デイズ』読了。

 

死刑囚の女の子という字面に反した、さわやかな読後感におどろいております。

 

 

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解説の辻村深月さんがすべてを語ってくれておるのですが、主人公・幸乃の意思がとおされたラストをわたしは救いととりました。

 

マスコミで騒がれた事件の容疑者・真相に、周囲の人間からせまっていくという構成は湊かなえ『白ゆき姫殺人事件』に似ておりますが、こうも印象が違うものか。

 

『人はなぜ物語を求めるのか』のなかで、 " 湊かなえ作品をひとは嫌な後味を味わうために読む " といった風なことが言及されていました。

 

『白ゆき〜』では首を固定されて、目を背けていた部分へぐいぐい向かされる感じでした。フィクションだからと笑えない、証言者を醜悪だとおもうだけ同じ言葉が自分の暗部に突き刺さる。

 

『イノセント・デイズ』では幸乃の生き様をみせられたのだとおもいます。

 

幸乃に後ろめたさを感じる人々が幾人か登場するんですが、罪悪感と忘れてしまいたい・関わりを断ちたいって思いが同居している。

それを糾弾する雰囲気が作中にまったくないところが新鮮で、重いストーリーながらも風通しがよいのはここら辺が関係しているとおもう。

 

「ここは〜という感情を抱くべき」という意図を感じさせない。完全に読者にゆだねられた物語。その信頼感ゆえに一気に読みおえられたのかもしれない。

 

 

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サスペンス・ミステリーで女性が犯人となると、性的虐待や強姦といったワードがお決まりのように登場するのですが、わたしはそれがとても苦手で、なるたけそういうのを引きあてないように注意しております。

 

『イノセント・デイズ』は知人から譲りうけたもので、まさに " そういう " 匂いのする本。自分では絶対選ばなかったとおもいます。

 

予想どおり、性暴力の場面やモラハラの生々しい描写があったのですが、けっこう大丈夫だったので、その点でも驚いています。

 

表現方法はもちろんのこと、わたしの内面の変化も関係しているのかな?

 

暴力の加害者・被害者の深層心理をある程度は理解できた今は「訳のわからないものに対する恐怖」は薄れたのかもしれません。

 

わたしには訳がわからないことが、犯行理由として、わかることとして扱われることが、たぶん怖かった。

 

 

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連休中に本を4冊読みました。

元気でないと、好きなもの好きでいられないです。

 

今年はまめに感想アップしていきたいな〜 

 

 

 

 

きかざるはあせらない〜体感時間をのばす方法〜

 

1週間ほど帰郷してました。

その間におもしろい発見をしまして。

 

 

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滞在拠点は道路に面したマンションでしたが、なんせ田舎。交通量は少なく、5階なこともあって外部から音が気にならない環境でした。

 

不思議なことに、そこで過ごしていると1日をすごーくながーく感じたのです。

 

体感時間と聴覚は関係しているのでは?

 

予感を証明すべく、名古屋の自宅にて昼間から耳栓をつかってみたところ、やっぱりゆっくりに感じる!

 

 

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「聴覚 時間の関係」でググる

 

ヒトの脳はどのように時間を知覚しているのか

http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/17/020800002/021300003/?ST=m_labo

 

「人間はオンオフの回数で時間を把握しているのでは」ということが、こちらの記事では言われてまして。

 

5秒照射される光と、5秒のうちに点滅を繰り返す光とでは後者の方を長く感じるらしいのです(サイトに添付されてる動画で体感するとよくわかる)。

 

光る=オン、消える=オフ。

 

オンオフ1回の照射しっぱなしよりも、オンオフが複数回となる点滅を長いと感じる。

 

 

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そして人間は視界だけでなく、聴覚などと合わせて複合的に時間をとらえてるらしい。

 

聴覚と視覚に同時に刺激が与えられて、それぞれの効果がバッティングした場合はどうなるか。四本さんの研究では、聴覚の方が勝つことが多いそうだ。一般的には、空間的な情報は視覚に重みづけがあり、時間的な情報は聴覚のほうを信じる傾向があるそうで

 

やはり聴覚と時間は関係している!

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー聴覚だと視覚と基準が逆転するんだろうか?

 

静かな環境=オンオフ少ない=長い。

 

情報量が少ないと長くなるのかしら?

 

 

1記事をざっと読みしただけなんで理解が追いついてないですが、「静かな環境では体感時間はのびる」ってのは何かしら理屈がありそうです。

 

体感時間がのびて何がいいかって、焦燥感が取りはらわれる。時間を気にせずリラックスできる( 実際消費してる時間は同じ )。高知では、名古屋の自宅での追いたてられるような感覚がまったくなかったです。

 

田舎がいい、リゾートがいいってのはそこら辺も関係あるかもですね。

 

遠出してる暇ないわ!ってひとは、耳栓使う、近場の静かな場所にいくなどすれば、体感時間の面だけで言えば同程度の効果が得られるとおもいます。

 

 

 

…静かな家への引っ越し、急務。

 

 

 

 

くるしみもいろいろ〜自己否定型・肯定型〜

 

苦しみは生きる理由になるから、からっぽの人間はDVやパワハラから逃げられるなくても仕方ないなあ。

 

 

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苦しみの材料には2種類ある気がします。自己否定と自己肯定。

 

・自己否定型「こんな失敗するなんて、自分はなんてダメなんだ」

・自己肯定型「素質はあるはずなのに、なんで失敗したんだろう?」

 

否定型は、失敗に対する苦しみに加えて、自分つまりは過去の全部が失敗だったという絶望も味わわなくていけない。心中は嵐である。

 

肯定型だと、目の前の失敗を苦しむだけで済むんですよね。しかも「工夫すれば上手くいくはず」と自分に信頼を寄せている。ためらいなく再チャレンジできる。

 

わたしは今カラオケアプリにはまってるんですが、音を外したとしても「自分にはこの歌は無理なんだ(否定型)」とは考えなくなりました。

「声の出し方を変えてみるか〜(肯定型)」「元気なときに歌ってみるか〜(肯定型)」ってな感じで繰り返しトライ。そのうちなんとなくコツをつかむ。

 

 

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自己否定から脱したいなら「人生は自分が感じてるほどには苦しくない」って納得しないといけないかもですね。

 

自分の苦しみと他人の苦しみ。

 

単語としてはおなじ「苦しい」だとしても、中身は全然違うかもしれない。自己否定してるひとは大変な道を歩いてきたひとで、その道しかないと思って生きている。全人類そうだと思っている。

 

否定の否定は肯定。

 

「そうじゃない」って認める先に希望があったとしても、人生観をひっくり返すことには違いない。それはやっぱりこわいことだ。

しかも自己否定は無意識下で起こってるから、無意識をひっくり返さないとなのだよね。

 

 

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「チャレンジが怖い」は、「チャレンジして失敗したときに自分に否定されるのが怖い」だとおもう。だから周囲が優しかろうが、励まされようがムリ。

 

否定してくるのは自分なのだもの。逃げらんない。

 

趣味程度のチャレンジは軽率にできるようになりましたが、仕事となると脳内罵倒まだまだ現役…そろそろ引退してほしいわあ。

 

 

 

『大森靖子MUTEKI弾語りTOUR@須崎』行ってまいりました〜

 

靖子ちゃんは私における二大歌手のひとりで(もうひとりは坂本真綾さん)、精神的母親と言っても過言ではない存在!靖子ちゃんの歌きっかけで自我を芽生えさせましたからね。

 

ゆるキャラグランプリに輝いた、須崎のゆるキャラ・しんじょうくんも靖子ちゃんのファンというわけで、ゆるキャラたちとのコラボありという異色のライブでありました〜

 

*一部撮影OKだったのでネットに動画があがってます。気になる方はTwitterなどで#大森靖子MUTEKIで検索を!

 

 

今回は靖子ちゃんから私がもらったものについて書いてみようとおもう。

 

 

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靖子ちゃんは「生きづらくてもいいんだよ」って言ってくれるんですよ。

 

たぶんなんですが、わたしは気弱で大人しそうな見た目をしている。そのうえ、フリーターで未婚。NOT就活・婚活。大丈夫なんかなって優しい人は思うのか、相談する前から励ましてくれたりする。

 

「まだ若いから就職できる」

「そのうち出会いがあるから大丈夫」

…ありがたい半面、なにかひっかかってしょうがない。自分も悪いんですよ?無意識に弱者を演じるフシがあるので。

 

「君の現状は不幸、抜けだす努力をしなさい」って言われてる気分になる。そこまで困ってはないし、ここはここでしあわせやのになー。

 

 

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前回記事ともかぶるんやけども、しあわせを目標にしたら苦しくなる気がするんです。いつまでも " ここ " は不幸なまま。

 

人生のピークはいくつもあっていいんやない?

 

一般的な良い歌とは「沼に溺れるひとを救いだす歌」なんやと思う。がんばって陸にあがってあたたまろう、陸はこんなにきれいで快適だよーと。

 

靖子ちゃんは、なんだろな、「その沼大変そうやけどめっちゃおもしろそう!」って笑ってくれる感じかなあ。

 

わたしの沼はこんなだし、隣の人はこんなの、陸はそりゃいいけど沼の楽しみ方を考えてみるのもいいかもね、って言われてる感じなんですよ。

 

分解しようのなかった「苦しみ」に、新たな意味が与えられる。世界が反転する。

 

沼から抜け出せなくてもしあわせになっていいんやって。

 

 

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『オリオン座』には " 最高は今 最悪でも幸せでいようね " という一節がありまして。

 

これは " 世間の基準に達してなくても、苦しみながらでも、一瞬で消えてなくなる幸せを感じてこう " って意味な気がします。

 

沼のなかで笑ってもいいんだよ、って。

 

ここが沼だって自分が1番よくわかっている。でも天気によっては快適になることもあって、たまに遊びにきてくれる人もいて、笑える日もある。

 

こんな沼でも必死こいて開拓してきた結果だもの、やっぱり愛してしまう。

 

陸の美しさには憧れる。でもそれと比べて " ここ " がダメってのは、なんかちがう。きっと陸には陸の辛さがあって、近づいたらそこも実は沼かもしんないし。

 

 

ファンになって3年。納得できる靖子ちゃんに惹かれる理由にやとこさ辿りついた。

 

無意識のところをぐん!て掴まれるから、新曲の試聴やライブではいつも泣いてしまう。思考置いてけぼり。

 

 

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沼に人が落ちてたら引っ張りあげたい。それは誰しも思うし、本来悪いことではない。

 

人間に体はひとつしかなくて、たくさんの人を助けようとしたら「がんばって!」って言葉をかけることになる。「そこはよくない環境だ」と脅してでも陸に上がらせようとする。

 

でも這い上がる体力のない人もいる。別に這い上がる必要はないと感じている人だっている。

 

自分には誰かを助けられる手がたくさんある気がしていた。手だと錯覚していたのは、ただの言葉でした。引き上げられなかった。脅しをつかって傷つけて、かえって沼に沈んでいった。

 

未来のしあわせではなくって、今の苦しみと幸せの両方に手を鳴らせるひとになりたい。尊敬と祝福をこめて。わたしの沼から遠くのひとにも聞こえるように。

 

 

 

 

大森靖子はほんま最高なのでファンがひとりでも増えると嬉しい。しっとりからハイテンション、とがったのからかわいいまで、ライブならではの歌い方ありとバリエーション豊富なので、色々聞いて自分にあったのをぜひ見つけてほしい〜

 

『オリオン座』

https://youtu.be/06-iSV6nZ1E

 

 

 

 

 

 

 

自己肯定のその先は… その2

 
危険と隣り合わせの登山を趣味にしている人を不思議に思ってきたけれど、あれは苦しむために登ってるんだなあ、きっと。

 

「なんで苦しんでいるんだろう?」に対する「頂上に立つため」というシンプルな答え。

 

生きる意思ありきの万全の準備のもとで得る苦しみならば耐えられるし、なぜ?って問いかけを必要としている人間には苦しみが不可欠なのだと思う。

 

人間は常に自分になにかしら問いかけていたい難儀な生き物みたいです。

 


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幸福とは一般的に波風の立たない状態を指すと思う。維持するには変化を避けるのが手っ取りばやい。

 

けれど、生きるとは「自分以外のナニカと関わること」であり、どうしたって波風が立つ。そのためにわざわざ不自由な肉体まで得て、わたしはここにいるのかもしれない。

 

自分ひとりで幸せになるのって比較的簡単じゃあないですか?傷つけられない、傷つかない。得るもんもないけど、減りもしない。幸せを目的にするなら生まれてこない方がよほどいいとさえ思う。

 

幸せだから死にたいってのは矛盾しないのかもしれない。

 


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苦しむために生まれてきたとはいえ、自己否定の苦しみはまた別もの。登山やマラソンと一緒の「生きる意思ありき、下準備万全の」苦しみのこと。

 

生を祝福する苦しみ。

 

夢とはまさにそれで、苦しいからやめとけってのは見当違いなのよね。苦しむために追いかけるんだから。

 

自己否定の苦しみから逃れる道程で、人生に必要な苦しみまで排除したがゆえ、わたしは最近苦しくなっていたらしい。生きる意味を、夢を失っていたのです。

 

今のわたしには夢が要る!

 

絶対無理だけど、でももしそうなれたら嬉しくてたまらないって願望。

 

諦めたくない、じゃあ弱い。諦められない強い欲求。最上級の自己肯定。

 

「自己肯定したい」「変わりたい」って思うたび、自分を肯定できてたんだな。なんだ、わたしはずっと、わたしの味方だったんじゃーん。

 


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ふと思ったんだけど、モラハラの渦中にいるのって人生の目標に幸せを置いてるひとたちな気がする…少なくともわたしはそうだった。

 

波風を嫌って、自分や他人の苦しみをゼロにしようとするも無理で、それを根拠に自己否定に走ってる、みたいな?

 

ここら辺はまた改めて考えてこうと思いまーす。