へなちょこフリーターの悠雅な日常

おもしろおかしく生きてます。ブログタイトルは香月日輪さんの著書から拝借。目標:週休5日。

合言葉は「今年中に」。

 

諸々の気がかりをやっつけた1日。

ざっとこんな感じ。

 

・ライター仕事に初応募

・在宅バイト関係のメール送信

奨学金返済のプラン立て

株主優待をちょこっと勉強

高殿円「トッカン 特別国税徴収官」読了

・オフィスチェアと足首温ベルト、ルピシア福袋(梅)を注文

 

フリーソフトTeraPad、MediBang Paint Pro)をダウンロード

 

 

 

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*「トッカン」は3時間で読了した。何重にも入れ子になったエピソード構成。なるほど!TVドラマ化は必然ですな(ドラマは見たことない…)。「徴収」という仕事の捉え方を、序盤と終盤で見事に(そして無理なく)ひっくり返してみせる手腕はさすが。主人公とその上司の人間性、善人・悪人を逆人させてるから、読者は己の無知・愚かさを恥じる主人公を他人事と片付けるわけにはいかなくなる。高殿さんの描く信頼構築過程のふたり組、大好きです。

 

*チェアはauのポイントを使ったので、200円で済みました。椅子があって、足首の冷えが解消されれば、活動時間が増えるのではないかと…。

 

ルピシアの福袋は、数種類の茶葉を定価の半額で購入できるのです!レビュー見た感じよさげだったので試しに。正月一番に並んだりしなくていいのもよいよな~

 

*WEBデザイン会社の在宅バイトが12月で契約終了。イラレ・フォトショが入ったパソコン返却せにゃならんので、代わりになるソフトを入れてみた。

まだ手をつけてないですが、操作画面見た感じ、MediBang Paint Proはとっても楽しそうな予感。

 

 

 

 

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心身ともに健康ってのもあるけれど、「今年中に」って考えが知らず働いてるんでしょうか?バイト前日は気分いい確率高い気もするし、ある程度の張りはモチベーションに必要ですね。

 

応募してみたクラウドワークは本の紹介記事の仕事で、未経験だし採用されないんでないかなー。本のあらすじや感想を日常的にまとめとけば、こういう仕事もできるんやーって勉強にはなりました。遊び半分な努力を未来に備えてコツコツしてこう。

 

 

お財布事情は毎月プラマイゼロって感じです。

「イラストやらで手に職つけたい若者は借金してでも良い椅子買え」って朝ネットで見まして。本日のネットショッピングは投資ってことで思いきって!

金かけずにできる楽しみのレパートリーも増えて、最低限今の生活スタイルでも十分面白おかしく暮らせる!って自信がついたからかなのか、未来を考える心の余裕をもててます。

 

最悪親が助けてくれるって思うからこそできてもいて、定収入でも満足に読書できるのは図書館のおかげだし、通信料だけであらゆるサービス利用できるネットは必須だし、フリーターでやってけてるのはほんまこの時代だからこそやと思う。

 

今は微々たる力ではあるけども、できることできるときにやって、還元していきたいなー。

 

22時まわっても頭がはっきりしてるってだけでわしはサイコーです。

 

 

 

 

明日もがんばらぬ~。

 

 

体は動かすもの。ルールをほどけば、がんばらんでよい。

 

 

カラオケアプリなる存在を得て、ますます磨きのかかる引きこもり生活。

 

 

高音を難なく出せるようになった。

舌の付け根を下げて、音を頭の上に出しながら、下の前歯付近で発音するイメージ。喉への負担ゼロ。何遍でも歌える!( ほんに金のかからん奴だわね )。

 

力を抜きながら思い通りの音を出す、という初めての体験は瞑想にも似て、歌詞を発音しつつも意識は半覚醒。

 

 

クレヨンしんちゃんの映画で、読心術のできる敵への対策として、歌いながら戦えばいいんだ!ってなる場面がありました。

歌って無になるのはわからんでもないけど、そしたら体を動かすのは無理では?

長年疑問だったけれど、まどろみつつ歌詞追えたんだから、たぶんできるね。

 

歌の節に合わせて体を動かせば、無意識に近い状態での行動も不可能ではない気がします。

 

 

 

自分の喉から出したいと思った音を出せる。これは歌のうまさに紐付いた喜びとは、また別なような。補助輪なしで自転車に乗れたってのが近いかな。

 

体は魂にもっとも近い外界であって、私の一部ではやっぱりないのだなあ。

 

気分が沈んだら体を動かそうってのも、医科学的になんちゃらって理屈もあるんでしょうが、例え関節1つであっても自由にできるっていう実感は、生きる上でけっこう大切だと思うのだよね。

 

ダイエットが流行るのも、痩せるってご褒美はもちろんのこと、体のサイズを自在に操るって点に原初的な魅力を感じる人が多いからではないでしょか?

反対に太ることでも自分の意思と体の変化の関連は垣間見れるので、わざわざしんどい思いしてまで同じ結果を求めようとはしない=ダイエット失敗ってこともあるのやもしれませぬ。

 

 

 

坊さんは修行時代にあらゆる娯楽を禁止されるので体で遊ぶんだと本で読んだ。坐禅や読経もその一部だと。

 

体がままなる、というのはほんとは凄いことで、子どもが走りまわるのは「それ」がわかるからで。

 

年月を重ねほどよく固まった体をほぐす作業は、赤子が歩く喜びを知るのと大差ないのやも。

 

運動習慣づくりは5週目に突入。腹は相変わらずぽっこりしてますが、毎日の楽しみが増えて嬉しい限り。年の暮れにひょんなことから趣味が増えるとは思わなんだ。

 

 

 

明日もがんばらぬ〜。

 

 

 

映画好きになったきっかけ的作品について徒然。

 

 

マルタのやさしい刺繍

レンタル店でおすすめされていた。有名じゃなくとも映画って面白いな!ってことを教えてもらった。

 

『おしゃれ泥棒』

オードリー・ヘップバーン主演。カフェで流れていて一目惚れ。邦題はあれだけど、服装や装飾がレトロ、可愛い、たまらん!お互いしか見えてなくてはちゃめちゃやるカップル大好物。クールキャラがアホな子に振り回されるのサイコー。

 

幸せのレシピ

恋愛ものの中ではもっとも好きかも。調理シーンのある映画大好き。恋をプライドでかなぐり捨てちゃうシーンは往々にして苦手なんだけど、この映画のは比較的大丈夫。プライドの拠り所が料理人としての腕に根差してるから、かなー。ほいで子役ちゃんがいいのです!カップル+子役の女の子の3人のセットが好き。スープの味見するシーンは最高にエロい。堅物が開き直ってバカップルしてるラストよいー。 

幸せのレシピ (字幕版)
 

 

『傲慢と偏見』

ヒロインが銅像を見上げるシーン。 " 恋する瞳 " とはこれを指すのだと思った。こちらが照れて直視できないほどでありまして。役者とはとんでもない仕事です。

高慢と偏見 [DVD]

高慢と偏見 [DVD]

 

 

 

 

…恋愛ものばっかやな。なんじゃそりゃって恋を、当人たちは本気でやってるのが好きなんじゃ。共感はいらぬ、わしは傍観者でありたい!置き去りにされたい!

 

 

 

今日はこれを見た。

 

バチカンで逢いましょう』

開始15分、主要人物が出そろったところで「こりゃ面白い」と確信。主人公の娘役が肝なんでしょう。一番きちんとしようとがんばってるのに、なにもかも報われない…かわいい。

一周回ってべったべたな少女漫画的展開をお年寄りがやると「可愛い」しか残らんのか!目からウロコ。無知で身軽だからこその自暴自棄もいいけれど、酸いも甘いも知り尽くした大人の暴走は迫力ある。子どもと大人の役割が流動的なのもいい!

大から小まで隠し事が散りばめられたストーリー。嘘と許しの距離が縮まってくのが見ていて気持ちいい。どう愛するか・愛されるかって選択肢は無限にあるのだなー。

 

 

 

 

恋愛映画好きなのに、恋愛テーマの漫画には拒否反応示しがちなのなんでやろな…。要考察。

 

 

 

 

無味乾燥でも人間、36度5分。

 

少女漫画の主人公は胸を高鳴らせ、頬を染める身体反応を「恋」と名づける。

 

 

風邪をひくとか死ぬとか、そんな風な生理現象かと思ってました。運命って言葉は自分の手を離れているから魅力的なんじゃないのか?恋人はつくるもので、毎月更新のマニュアル、待っていては幸せになれないのだと親切な脅迫者たる誰や彼や。

 

人生のピークは60歳にもってくるべし。半世紀以上の辛苦を噛みしめてこそわかる甘味を求めるプランは、長生きに魅力を感じてないと少し苦しい。

 

今の収入で寿命を無事まっとうできるのか?

なんて平凡な悩み!きっと死ぬまで消えない、ならば対策練るだけ無駄である。不安を書き出そうと開いた手帳は5分で閉じて寝た。

 

「見通しが甘い」と言われればそれはその通りで、その人が私の行動に " そういう名前 " をつけた方が安心するんだろう。

 

ひとつの現象に同じ名前をつけないといけない気がして、「それは違う」と根拠もないのに言えなくて、同意を示してきた。「はい」も「いいえ」も私には嘘で、だったら相手が望む答えを返そうと思った。

 

フィクションを真似て、ドキドキを恋と名付けたけれど、私の心臓がよく跳ねるのは不安とか恐怖とか焦燥で、好きというのはただひたすらに静かだった。血流は関係がなかった。身体反応が薄くても、恋や愛と呼んでも言いことにした。

 

聞き及んでいた人間と私は、似ても似つかない。

他人を人間らしいと感じたことも、あまりないかもしれない。

 

私の誠意は乾燥していて申し訳ない。声みたい。自分の認識とは違う風に、他人に届いてく。

 

脇役でありたいって気持ちは、意外にも自己否定感とは全然違うことからきていて、輪の中心にいなくとも幸せになれるって、実際のところ長所なんではないかと思ってる。

 

 

 

平々凡々でありたい。まあ、特別になろうとしたところで無理で、永遠の平凡が私には確約されている。凡人というぬるま湯で、ブログを書いたりしていたい。

 

 

 

人に劣ることは、全然、恥ずかしくない。

 

雑談が苦手です。近況をダラダラ話せはしても、時事ネタや盛り上がりそうな話題を共有して楽しむ、ということをうまくやれた試しがない。

 

雑談の楽しさは知っている。だけども、ネタを仕入れようとかハウツー本で勉強してまで他人と話したいという欲求はなくて、そういうところ、社会人として欠陥品だなーと思う。

 

凪いだ感情、無口、無表情。集団に埋没するとき、私はなんだか人間味を欠いていて、ひたすらに居心地が悪い。人間にも空気にもなりきれない。

 

まつ毛も髪もくりんくりん、お人形さんみたいに美しい女性を見るのが私は好きなのだけれど、自分自身は化粧ってなに?って感じの女であり、憧れからくる好意とはちょっと違う感じがすると思っていた。

 

彼女たちは私に、確かな所在を示してくれる。主役と脇役という、完璧な隔たり。私は安心して空気になれる、影になれる。目の前の人と同じになろうとする努力の放棄を許される。

 

私だってはしゃぎもすれば、大笑いも泣きもする。感情表現は割と豊か。こちらがノーマルで、無口&無表情はイレギュラーなんだと思っていた。がしかし、認識を改めることにしました。

 

私たぶん、無口&無表情がノーマルです。

 

集団に入ると、無意識に失われる人間味。心の防衛反応かとも思い、頑張れば治るかと悪あがきしましたが、なんかもうあまりにも楽だし、冷静に考えると不都合は何もないのでした。変に思われるかも、という妄想を除いては。

 

事実はこの際どうでもいい。これはノーマル状態なんだと解釈した方が気持ちが落ち着くから、そういうことにする。

 

異常事態収拾ってよか、ノーマルからちょっと頑張ってみるかーって心持ちは精神的負担が幾分軽くて、二言三言以前より多く話せるようになりました。牛歩牛歩。

 

 

 

失敗や欠点を晒すの、怖くはないです。それでも受け入れてくれる人や場はあると知ってる。

 

幸せだと言うこと、幸せである現状は、恥ずかしくてたまらない。全然がんばってないのに、幸せで充実していて申し訳ない。

 

不幸せだって顔をしてれば攻撃される確率は少ない。アドバイスだってもらえる。

 

幸せの宣言はまっとうな人間みたいで、慣れない。

 

脇役でいたい、空気でありたい。

 

それが私には丁度いいと思うんだよな。

 

 

 

白飯に負けない余生+α 。

 

行き先を丁寧に解説されようと、どこに行きたいのかわかってなければ、目的が定まっていなければ、分岐点で迷って唸って日が暮れる。

 

 

 

絵を描く、本を読む、アニメを見る、ラジオをきく、音楽、運動、朗読、ネット、夢をみる、もの書き。

 

どれも財布を圧迫しない。

そんなに働かずとも面白おかしく暮らせる所以。

 

TVCMやワイドショーが取り上げる贅沢は、正規雇用者向けのもの。美味しいものは食べたい、旅行も好きだけれど、ないならないで別の楽しさをチョイスすりゃあよいのだとわかってきた。

 

共感されるかどうか。みんながいいねと言うものを欲しがった。理由も言い訳もいらない。言葉少なでコミュニケーションがとれて、よかった。

 

説明する言葉をもたない「好き」は不純なような気がした。

 

 

好きは遠くにあってもいい。好きでい続けるのに距離は関係ない。

楽しいには体がいるから、私は本を側に置いている。

 

好きには言葉がいる。楽しいは感覚、言葉なんていらなくて、子供をみればその通りで。楽しいは1人でもできて、私は昔から得意だった。

 

運動をして後悔する人間はいないらしいです。

 

舌を、喉を、皮膚を、腹を、手を、足を。体のどこを動かしても楽しい。

 

簡単に楽しくなれたら価値がないと、いつ頃からか思っていました。

 

面白おかしく暮らしたいと私が言うと、毎日ハンバーグでは飽きてしまうだろう、と笑われた。

普通になることは、そんなに悪いこと、だろうか?

スパイスは過去にもうあるから、この先にわざわざ苦行をもってくることはないのだと思った。

 

毎日ハンバーグ、上等じゃないか (3年くらい経つけどまだ根にもっている)。

 

私が言いたかったのは、ハンバーグであろうが粥だろうが、美味しかった!って意地でもいってやる!って気概で、食卓に何がのぼるかなんて関係がない。

 

白米は生まれてこのかた何万杯と食べてもうまいじゃあないか。

 

 

ご馳走に舌鼓をうった翌朝、塩むすびを頬張る。うまい、と言う。

 

人生そんな具合。

 

 

 

 

 

 

疑ぐりは処世術、気遣いは攻撃という名の防御。

 

明らかに怒っている人物に「怒っているか」と問い「怒っていない」と返される。これほど不毛なものもない。

 

 

父はそういう性質のひとだったし、教師に同僚、上司に年下、ただの知り合い ー老若男女問わず何人もの " そういうひと " を知っている。

 

相手にする必要はないんだと今は、わかる。

自分のせいで怒っているんだと長らく思ってきた。ひたすら謝って、大抵状況は悪化して、真の原因を突き止めようと頭をつかった。まあ考えたとこでわかんないんだけど。

 

 

 

 

出先で具合を悪くすることが多い。同行者がいると気を張りすぎるきらいがある。

 

 

ナイフを喉元に突きつけられるとする。足手まといになるなと言う犯人。

死にたくないから従順になるし、粗相をせぬよう足運び・息遣い・言葉選びのすべてに神経を研ぎ澄ます。そのうち過度な緊張で頭が働かなくなる、体が思うように動かない。ますます高まる緊張、私は殺されてしまうのか!?

…そういう状態に似ています、同行者がいるときに体調を崩した際の内面。

 

 

実際目の前にいるひとが優しいかどうかは全く関係がない。   

行動をともにする人間のすべてが、ナイフを秘めているように感じる。他人の気分を害すリスクは、ナイフを突きつけられる状況に等しい。

 

 

万が一にも同行者の気分を害すことのないよう細心の注意を払い、そのために体調を崩し、それが原因で同行者がイラだつのを恐れてる。

 

 

体調は時間が経てば治る、怖くない。

「お前のせいで気分を害した」と言外に伝えてくるプレッシャーは、時間が経てば経つほど増大する。

 

ふたつを天秤にかけて、私は後者を重視する。死にそうな思いをするくらいなら、ちょっとの頭痛や吐き気を耐えるくらいどうってことない。迷わず我慢を選ぶし、絶対に体調不良を悟られたくない。

 

 

 

言葉をそのまま受け取ってもうまくいかないことが多かった。安易に勘ぐったぐらいでは相手の望む答えにはたどり着かなかったから、あらゆるパターンを読むし、コミュニケーションにおいて楽観視はしない。正解だと思うことがほとんどない。

 

優しいひとは隠すのがうまいんだなと思う。信じてふいに刺されるリスクより、ありもしないナイフを避ける安心を私は選ぶ。

 

目の前のひとはきっと単純に優しい。

 

言葉や心配顔を素直に受け取ればいいだけの話で、怖かったのも傷ついたのも過去のこと。

助けを乞えないのは、我慢してしまうのは、現実がみえてないからなのだなー。

 

純粋な優しさは、都市伝説みたいな位置づけです。これだけしてやったんだから金払えと言われる方がまだ現実味がある。

ふいに立ち現れるファンタジーを前に、立ち尽くす以外の反応が、うまく、できない。

 

優しさに不慣れ。

 

原因らしきものが今回わかったので、いつかは改善するんじゃなかろうか?

 

そうであって欲しい。